2013/01/02

ヴィクトリアストーン【第三話】父の愛


アイエル・ストーン
IL-Stone/Synthetic Emerald
Iimori Laboratory, Tokyo, Japan



ヴィクトリアストーンは芸術そのものであると、アメリカの愛好家たちは口を揃えて言った。
私も同じ気持ちだった。
世界的成功を収めながらも、飯盛博士は晩年、質素な生活を送られたという。
国内で全く売れなかったヴィクトリアストーンの研究を生涯続けたのは、博士の強い信念に由るもの。
…などと考えたくもなるのだが、事態はもっと深刻だったようだ。
欧米からのヴィクトリアストーンの注文をたよりに、細々と宝石を売って過ごす日々。
その魂は世界中の宝石を愛する人々に伝わったものと信じたい。

遥かなる蓬莱山の峯晴れて奇しき翠石あらわれにけり」(『蓬莱山通りの図』 飯盛里安)

飯盛博士が晩年に詠んだ句に添えられた絵に、蓬莱山より顔をのぞかせる奇妙なエメラルドグリーンの鉱物が描かれている。
ダイオプテーズに似ている。
偶然だがその年、レアストーンハンターうさこふがこの世に誕生した。

60年代末~70年代にツーソンショーでヴィクトリアストーンを手に入れた海外の宝石職人たち。
今はもうかなりの高齢になる。
彼らは反日であることが多いが、同世代の日本人もまた同じである。
朝鮮戦争に軍人として来日し、敗戦国日本の惨状を目の当たりにしたミック氏(仮名)が、日本人を嫌悪するようになったのも無理はない。

2012年明けてすぐ、私が夢をもとに記したヴィクトリアストーンの謎。
きっかけはオトゥーナイト/燐灰ウラン鉱の記事だった。
太平洋戦争中に原爆開発が行われていた福島県石川町は、東京電力福島第一原発にほど近い土地。
2011年3月に発生した大規模な原発事故に新たなる疑問を投げかけるべく引用したその資料に、どこかで見たお名前があった。
飯盛里安博士。
確か、イモリストーン(=ヴィクトリアストーン)の開発者ではなかったか。
なぜこんなところに飯盛博士の名前が出てくるのだろうかと、不思議に思った。
タブーではあるまいかと、それ以上の追求は控えた。

原爆開発に関わった飯盛博士と、ヴィクトリアストーンを考案した飯盛博士は、同一人物なのだろうか(→違うともいえる。詳しくは昨年の記事の追記にて)。
記事ではあたかもマッド・サイエンティストのように殺気を放つ飯盛博士が描かれる。
かつて見たあの美しい宝石とは到底、結びつかない。
博士の業績は原爆研究だけではなかったはずだ。
しかし当時、ネット上に飯盛博士やヴィクトリアストーンに関する資料は皆無であった。
博士が生涯をかけて取り組んだ人造宝石を代表するヴィクトリアストーンは、どういう訳か現在アメリカにある。
ならば、アメリカ人に直接事情を聞いてみる必要がある。

折りしも震災直後、放射能の脅威は福島から世界に拡大しつつあった。
日本では異常ともいえる放射能への嫌悪、それに伴う過激な論争や混乱が続いていた。
世界は今、ヴィクトリアストーンに何を見ているのだろう。
ある時私は「日本人お断り」という注意書きとともに、ヴィクトリアストーンを販売しているアメリカ人業者を発見した。
この人物、興味深い。

しかしながら、ミック氏(仮名)は予想以上に難しい人物であった。
なぜ日本人と取引をしないのかという私の問いに、彼はすぐには答えようとしなかった。
和歌のやりとりのごとき暗号めいた文通が続いた。
私は賭けに出た。
飯盛博士の異なる側面について、また福島での原発事故との奇妙な関連性について、推測の段階で彼に伝えた。
ヴィクトリアストーンは、作者の罪の意識により封印されたのだ、と。

興味深い、と彼は言った。
どうやら関心を持ってもらうことに成功したようだ。
彼は初めて身の上を明かした。
「私は朝鮮戦争のさい、軍人として日本に滞在したことがある」
距離は少しずつ、縮まり始めていた。

こういう昔のことは、昭和一桁生まれの父親に聞くのがよさそうだ。
私はすぐに実家へ向かった。
そして私は、彼の軍人としての複雑な思いを知ることになる。
戦後間もなく勃発した朝鮮戦争。
米軍の占領下にあった日本は、中継地点として米軍に利用された。

「ギブミーチョコレート!」

空腹のあまり、米兵を必死で追いかける子どもたち。
日本人が地に堕ちた時代。
若き日の彼と父は同じ光景を見たことだろう。
私の父親は偶然にも、仕事の関係でアメリカに留学していたことがある。
私は彼に、自分の父親の人生や思い、日本人としての立場を話した。

奇妙な偶然の一致であった。
ミック氏(仮名)と父親は全くの同い年であった。
70年代初期、ニューヨークの下宿に生活していた父親。
同時期に日本からのヴィクトリアストーンを手にした彼。
後に飯盛博士が親子であったことを報告し、父の愛が創り上げた宝石ではないかとの推測を伝えた時、彼は私が日本人であることを忘れてしまったかのように優しかった。
私は彼に、父の愛とは何かと訊ねた。
彼の存在そのものが答えであった。
いつの間にか、彼は私のアメリカの父親になっていた。
父の愛が国境を超えた瞬間だった。
ヴィクトリアストーンが父の愛とともにアメリカから日本に贈られたことは、飯盛博士に伝わっただろうか。

それから半年。
アメリカからメールが来た。
ミック氏(仮名)であった。
日本から大量に注文が来たのだが、この日本人を知っているか、という内容だったのだが、私は知らなかった。
その日本人が私の知り合いかどうか、確認しているようであった。
いやな予感がした。
すぐに取引をやめるよう伝えたが、間に合わなかった。
URLにあった店舗には、アメリカの父が卸したというヴィクトリアストーンが並んでいた。
私は強い違和感を覚えた。

2012年、日本で突如としてヴィクトリアストーンが話題になった。
国内では評価されず、消えたはずの宝石がなぜ今、注目されているのか。
天然石を最高と位置づける価値観は、今に始まったものではなかった(これは意外であった)。
博士の死後三十年経った今、その価値観が突然覆されたのは不可解である。
さらに奇妙なことに、国内のあちこちに流通し始めたそれは、私の知っているヴィクトリアストーンとは違うものだった。
初めて出合ったヴィクトリアストーンは、夢のように美しかった。
だからこそ、私はいっときも忘れることはなかったのだ。

池袋ショーへ行って、この目で確かめなければならない。
日本人は天然の石、ご利益の期待できる石以外、欲しがらないはずだった。
その背景などを鑑みると、ヴィクトリアストーンは、いま最もご利益が期待できない石のひとつである。
11月末、私は池袋行きを決意した。

偉大なる父の愛は、ときに奇跡を現実にする。
池袋ショーにおいて、私はある人物から飯盛博士の遺したヴィクトリアストーンを直接譲り受けることとなった。
あまりの額に4年前に購入をあきらめた、特別なヴィクトリアストーンも含まれていた。
それだけではない。
飯盛博士が研究を重ねたものの、行方がわからなくなっていた幻の宝石を事実上プレゼントしていただけるなど、想像し得たであろうか。
すべては父の愛のなせる技であった。

写真はILストーン(アイエルストン)と呼ばれる博士の作品のひとつ。
博士が開発した合成宝石を総称して、ILストーンと呼んでいる。
この合成エメラルドもそのひとつ。
ILストーンは膨大な量に及ぶが、合成エメラルドは現存の資料には残っていないから、事実上行方不明になっていたのだろう。
私のような者にこの貴重な宝石を託してくださった彼の人物に、心から感謝申し上げる。
偉大なる世界の父親たちは、父の愛に国境がないことを、時を超えて私に教えてくれた。
しかし、人間の心には時として、真実を遮る闇が生じる。

飯盛博士が生涯背負うことになった苦渋の過去。
福島第一原発事故の波紋で、原爆研究のほうに飯盛博士の名前があがるなど、なんたる皮肉であろう。
博士の功績は忘れられた。
もちろん、欧米は飯盛博士そのものを評価したのではない。
日本もまた同じである。
ヴィクトリアストーンの明暗を分けたのは、人の心であった。
ならば、その違いとは。



10×6×5mm  1.88ct


~まだ続く~
次回、最終回です

今週、話題性が確認された10の鉱物

What Mineral Would You Take with You to A Deserted Island?