2012/12/31

ヴィクトリアストーン【第二話】本当の意味


変彩性ヒスイ/ビクトリアストン
Victoria Stone
Iimori Laboratory, Tokyo, Japan



ベックエレル先生よ、あなたの偉大なる発見は半世紀後にこんなにも恐ろしい事態を惹起するに至った

若き日の飯盛里安は冒頭にこう記し、放射能が人類にもたらした偶然と悲劇について述べている。
終戦後すぐに記されたこの文に、彼の苦悩が凝縮されているかのようである。

仁科芳雄とともに政府要人に招かれた飯盛は、原爆開発研究に取り組むことを余儀なくされた。
二号研究(東大理化学研究所が行った第二次世界大戦における原爆開発)の詳細な内容と、それに翻弄された研究者たち、隠された歴史が彼の手記から明らかになる。
日本が原爆の研究に着手したのは昭和十六年、開戦の年。
アメリカに同じであったという。
圧倒的なウラン資源の違いが日本への原爆投下という結末をもたらし、終戦を迎える。
場合によってはその逆もまた、あったかもしれぬ。

東京大学の研究所がなぜ福島に置かれたか。
これは都内にあったウラン抽出工場が、昭和二十年の空襲で真っ先に攻撃を受け大破したためだ。
米軍は日本が原爆開発を行っていることを知っていたのではないか、と飯盛は推測する。
研究所は疎開というかたちで福島県石川町に移転。
終戦までの約三ヶ月間、奇しくも日本の最先端の研究者たちが福島の地に集まり、放射能を武器へ変えるための研究を行った。
それが本意ではなかったことを、飯盛ははっきりと記している。
彼が戦争に利用され、平和を望んでいたのは、全くの事実であった。
そればかりか、放射能と人類の未来について強い口調で警告している。
2011年3月に起きる福島での原発事故を、あたかも予言するかのように。

長男・武夫氏の急死、またその原因について述べられている箇所は、ここにも見当たらなかった。
意図的に避けたようにも見える。
父より先に福島へ出向いたのは間違いない。
研究所が福島へ移転したときには、理研の在籍者のリストから除外されていた。
四男・健造氏が、父を偲ぶ文中で武夫氏について、早すぎる死に一言触れられているのみ。
ヴィクトリアストーン同様、武夫氏の死もまた、封印されたと私は考える。

これは意外な事実なのだが、飯盛は私生活において、何よりも放射能を避けていたらしい(※注)。
自身の研究のテーマとなった放射性鉱物に関しても、個人的コレクションさえ、自宅に置くことを頑なに避けた。
陽気な笑顔とは裏腹に、神経質な側面もあったようだ。
仲間たちは次々に被ばくが原因とみられる癌に倒れた。
仁科も戦後間もなく白血病で亡くなっている。
にも関わらず、飯盛は97歳でこの世を去る直前までお元気だったということである。
さぞ大往生なさったことと思いたくもなる。
しかし実際は、苦しみと絶望の中にあって、孤独な最期を遂げられたとのことであった。

1982年秋。
飯盛は自宅で倒れ、一ヵ月の入院ののち、死去した。
長年連れ添った妻を見送ってわずか一年後のことだったという。
死因は解剖の結果、癌であった。
彼はおそらく、癌であることに気づいていた。
最後の一週間は酷く苦しみ、その声が途切れた時にはもうこの世の人でなかったそうだ。

奇妙な印象は拭えない。
高齢者の癌はゆるやかに進行し、若い患者よりも症状は穏やかであると聞いている。
97歳でそれほどの症状が出るというのは奇妙で、心理的な葛藤を疑いたくなる。
安らかに死ねない原因があったのだとしたら…
原爆研究、そしてご長男への罪の意識が彼を苦しめたのだとしたら…

我々は絶対に、福島の事故を他人事と思うべきではない。
先人のすべてが、好んで原子力を開発したわけではない。
そして我々は絶対に、ヴィクトリアストーンの封印を解いてはならない。
飯盛の過去は、絶望的な罪の意識とともに、ヴィクトリアストーンに封印されたのだ。
よりによって今、陽の目をみるなど、あまりに残酷ではないか。

飯盛の死からちょうど三十年後の2012年秋。
アメリカから私に連絡が入った。
何かの冗談に違いない。
日本人が大量にヴィクトリアストーンを注文してきたというのである。



───やがて石炭石油のつきる日に

人類の社会から私慾、不信、専横、嫉妬、怨恨
あらゆる不徳が一掃されねばなりません。

(中略)やがて放射能の研究は
一に原子核黎明の実験的鍵として
日に月に華々しい功績を挙げながら、
やがて豊かなる原子力時代を招到することであろう。
我らは田を耕しつつ悠然と空を眺めてその到来の日を待つであろう。

栄えよ放射能!!
さようなら放射能!!!

昭和二十二年 仲秋 福島県石川山にて


(『放射能一夕話 鉱物と地質』Vol.8 (1948) 飯盛里安)


※注1)日本において放射線障害を最初に報告したのは飯盛里安博士であったという。放射能研究の犠牲となった初の日本人で、フランスに派遣されキュリー夫人(Madame Curie)に師事、1927年に31歳の若さで死去した山田延男博士について、彼の死が放射化学研究に因るものと指摘。山田自身は自分の病気と放射能との関係を疑っていたが、原因不明の奇病と扱われるにとどまっていた。1959年に飯盛が、山田の死因ががんであること、実験中に浴びた放射線による被ばくが原因であることを示したのが初の公的な学術報告とされる。早すぎた死が山田の名声を損ねたのは明らかで、存命であればノーベル賞に値する世界的評価を受けたといわれるほど。彼の死から三十年以上言及を避けられたその死因に関して、飯盛がその実体に挑んだことは極めて興味深い。また、それまで放射能が間接的な死をもたらすことは憶測に過ぎず、被ばくと悪性腫瘍の関係についても明言を避けられていたということになる。これが事実であれば、飯盛のこの三つ目の功績も歴史から忘れられたということになろう。また、山田と同じく放射能研究に関わり31歳で急逝した飯盛武夫博士の死因についても、当時は奇病の扱いであったことが推測される。日本最初の原発が建設されたさい、住民に提供された情報の詳細も気になるところである。以上、Wikipedia/山田延男「放射線障害」の項及び資料として放射線の影響がわかる本を参照のこと。

敬称略させていただきました。ビクトリア・ストンは国内での商標登録時のVictoria Stoneの正式名称です。



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