2012/07/13

サイババ・アッシュ


サイババの聖なる灰
Satya Sai Babas Sacred Ash
Babas Ashram, India



3日前、携帯電話が消えた。
朝起きたら消えていた。
私はよく物を失くすが、携帯電話は失くしたことがなかった。
幾度も消滅の危機に晒されながら、奇跡的再会を果たすこと数回。
今や携帯電話の無い生活など、考えられなくなった。
自分だけの問題ではない。

思えば、不思議な携帯だった。
ネットは基本つながらない。
電話も頻繁に、途切れる。
月蝕を撮ろうとしたらUFOが映っている。
私の人生初の水没事故から生還し、私の身代わりに誘拐される(!)などの過酷な試練を耐え抜いたあの携帯電話は、確か昨年の震災の翌日 前日に発売された。
ネットがたまにしか繋がらないから、表示されるニュースは5日くらい同じ内容。
震災のことも、原発事故のことも、ずっと後で知った。
ただあの携帯は、テロリスト殺害のニュースを誰よりも早くひろった。
また、日本では地味な扱いだった、サイババ死去のニュースを誰よりも早く伝えたことを、今でも不思議に思っている。

2011年4月24日、インドのサイババが亡くなった。
日本は未曾有の震災の混乱の中にあって、話題に上ることは殆どなかった。
インドでは特に悪い噂は聞いていない(ダライラマのお弟子さんには会ったが、サイババのほうはご縁がなかった)ので、現地でどういう扱いだったのかはわからない。
エスニック雑貨店には今でも、サイババをモチーフにしたシールやお香、ポスターなどが並んでいる。
インドではアイドルやスポーツ選手のほか、神様や聖人をモチーフにした尊いアイテムが好まれる。
助けてくれる神様ばかりではないのは皆さまもご存知の通り。

先日倉庫から、興味深いものが出てきた。
鉱物ではない。
写真にある、サイババが奇術により宙から取り出すという、聖なる灰の入ったペンダントである。
このペンダントのイレモノ自体は市販されていて、複数の種類の石を持ち歩きたい海外のクリスタルヒーラーの間で人気がある。
まさか、サイババの灰を入れる人がいるなど、想像していなかった。
出処は海外、今から4年ほど前になるだろうか。
クリスタルヒーラーとして長年活動されている方で鉱物の知識もある。
日本人のように灰にご利益を求めることもない。
これは面白い、という不純な動機で譲っていただいた。
灰ならば鉱物に含まれるのかもしれないが、サイババの身体の一部なら有機物?
無人島に持っていきたい有機物?
今となってはもうサイババが取り出すことのない、希少物質ということでお許し願いたい。

サイババの聖なる灰のペンダントがイギリスから届いた。
袋に小分けにされた灰も付けてくださった。
お香を焚いた後にのこる灰のような、心地よい香りと絹のような手触りは、周囲の人々のいう「人を騙して名声を得、金儲けに夢中になっている男」とはかけ離れた清浄な印象だった。
どなたかに笑いと共にお届けするつもりだったが、いつの間にか私の宝物となっていた。
単にお香が好きだからかもしれない。
それ以来、私はサイババに対して否定的になれないでいる。

サイババの死去を伝える記事を先ほど見た。
震災直後だけに、ニュースとしての扱いは地味。
現実との闘いだった我々の目に、サイババがオカルトとしか映らなかったのも無理のないこと。
トリックの図解や分析は当たり前、 "あやしい能力を使って手から粉を出してみせる億万長者" としてのサイババの死が伝えられていた。
ただでさえサイババの評判は悪かった。
聴こえてこなかったが、なんとなく想像できた。
資産の使い途から察するに、もともとの身分は高くなかったのかもしれない。
成金っぽいところはあったのかもしれない。
日本での震災前後には既にお悪かったようで、義援金の件で話題になることもなく、私たちの記憶から消えてしまった。
サイババの顔はマイケル・ジャクソンに少し似ている。
ファンの方には申し訳ないのだけれど、どこか共通するものがある。
スピリチュアルというより華やかに見えてしまうのも、マイナス要素のひとつかもしれない。

サイババが莫大な資産を慈善事業に投じたとあるが、これも誤解を生む表現に思う。
日本ではそれがパフォーマンスに過ぎないこともあるが、インドにおいてはむしろ当然のことなのだ。
金銭だけでなく、日常風景に垣間見ることのできる、ヒンドゥ教に独特の世界観である。
その日の飯代のために、切符の購入代行業者が長い行列に分け入っても、文句を言わない人たちがいる。
長距離を走る夜行列車の指定席に強引に座ろうとする切符のない人間に、黙って席を明け渡す人たちがいる。
インドでは裕福な者が貧しい者に施すのは神のおしえ。
貧富の差が生まれつき決まっているから、宿命的なものなのだ。
インド人は、神に誠実であることを行動で示し、非暴力を尊び、カースト社会を生きる。
もちろんインドの抱える人口分の犯罪者がいるから、絶対ではないことを忘れないで欲しい。
私ならば、金と名声のためではなく、人を微笑ませ、希望をもたらすためにトリックを使うだろう。

インドの修行者を極めて現実的に描写している興味深い例:
http://chaichai.campur.com/indozatugaku/sadhuqa001.html

ここではサドゥと呼ばれるインドの修行者について、神秘を打ち砕くかのような内容が具体的に語られている。
私のような者が偉そうに評する立場にないことはわかっている。
筆者はずいぶん修行者に近い生活をされたと思われるから、及ぶわけが無い。
ただ、ホンモノらしき修行者を、偶然に私は垣間見てしまった。
私がその場で見て感じたことに非常に似ている。

かつてインドを旅したさい、私は144年に一度とされる大祭に出くわした(※その手の祭もたくさんありそうだが、調べた限りでは宗教行事としては世界最多の参加者を記録したとある)。
マハ・クンブメーラと呼ばれるその祭りには、インド各地から修行者が集まる。
集まると言うより、もはやガンジス河が修行者に埋め尽くされてよく見えない。
いろいろなタイプの修行者がいた。
神秘でもなんでもない。
インドにおける信仰とは文化であり、日常であり、生きることそのものなのかもしれない。
批判を承知の上で、あえて上から目線で書くならば、外国人がサイババの超能力が本物か否かを主題にするのは、価値観の違いを考慮しない未熟さの顕れに過ぎない。
ガンジス河のほとりで生活する "観光客向け" のインド人修行者に対し、外国人は闇雲に神秘を求めるか、まがいものと笑う。
彼らが生活するために修行しているのは明らか。
現地の人は何も言わない。
そうやって楽をして暮らしていくことに腹を立てたり、羨ましいと思うそぶりもない。
ホンモノかニセモノかを見分けるという発想すらないように見えた。
修行者もまた、施しを受けて生きる運命にある。
同時に崇拝の対象でもあるというのは我々にはない感覚だと思う。
上記のサイトにおける、サイババとサドゥは広い意味では同じ、という一節は興味深い。
サイババが特殊な宗教団体の指導者として君臨したというより、奇跡により出現したと信じたくなるような世界が目の前に確かにあった。
その後の経済的成長はインドを確実に変えたはずだから、晩年のサイババについてはわからない。
状況はむしろ好転したようだ。
サイババは施しを受けると同時に、施しをする立場にあった。
奇跡の人ではないかもしれないが、嘘になることは無かったはず。
もしあるとするなら、サイババに過剰な神秘を求めたか、まがいものと笑いたかったのだろう。

Wikipediaにおいては、さまざまな角度からサイババという人物について述べられている。
サイババに興味のある方は一読いただきたい。
私がインドを訪れた2000年冬、サイババはまさに試練のときにあったようだ。
国際的非難を浴びながらも、その信念は揺らぐことなく、現実とともに存在した。
インドでは国葬という形でサイババの死を惜しみ、敬意を表したものと信じたい。
サイババに対する誤解を解くという意味を込めて。

気になることがある。
今となっては激レアなはずのサイババの聖灰が、ここにきて国内で流通しはじめた模様。
サイババが出したとは書いていないが、そう受け止める人もいるかもしれない。
スピリチュアル・ムーブメントの高まりのせいだろうか。
真実は誰にもわからない。

このペンダントが、サイババのまた別の姿を垣間見る機会を与えてくれたのは事実だ。
私は物を消すという奇跡を起こしがちな宿命のもとに生まれたのだと信じることにする。
できることなら、もうインドには行きたくない。
それはきっと人生で最も不幸なときだから。
もしインドに究極の幸せがあるなら、インドから日本に働きに来る人などいない。
日本に神がいないからといって、インドの神々が助けてくれるとは限らないからだ。


30×5mm(本体) 計4.46g


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