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2013/01/06

ヴィクトリアストーン【第四話】はじまりとおわりの場所


桜石
Pseudomorph after Cordierite
Kameoka, Kyoto, Japan



雲間から洩もれた月の光がさびしく、波の上を照していました。
どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いているのであります。
なんという淋しい景色だろうと人魚は思いました
。」

『赤い蝋燭と人魚』 小川未明 1921年)


2012年、ヴィクトリアストーンは一転して人気商品に変わる。
飯盛博士の後年の苦悩はなんだったのだろう。
カネになるとわかった途端、注目を集めるというのはどうも腑に落ちない。
また「人工石にも関わらず~」という断りが、決まって登場する。

日本において人工石がきらわれることについては、第一話で取り上げた。
万物に神が宿るとされる日本において、人工石に魂が宿るとするなら、作者が既に亡くなっていることが前提で、それゆえヴィクトリアストーンは評価の対象となり得たと私は考えている。
三十年のブランクについては言及は避けたい。

そんな日本から、どうしてヴィクトリアストーンのような世界的プレミアのつく人工石が誕生したのか。
当初の記事では、飯盛博士が戦災によって失った個人的なコレクション、ネフライトを再現するべく造ったもの、と記した。
これには諸説あって、ヴィクトリアストーン誕生のいきさつに関する博士の発言はまちまちである。
"宝石を愛するあまり、また美しいものを追求した結果、ヴィクトリアストーンをつくったわけではない───いずれ世界から美しい宝石がなくなってしまうことを危惧され、開発に至った"
ご遺族はそう聞かされたと述べている。
いっぽう、研究者仲間の間では、ヴィクトリアストーンのモデルはアクチノライト(陽起石・緑閃石)と伝えられている(博士の陽気な性格を「陽起」石にたとえたとされる)。
しかし、公的資料においては「ダイヤモンドに次ぐ価値のある(クリソベリル)キャッツアイ」を再現するために開発されたとある。

ヴィクトリアストーンのモデルといい、研究の動機といい、ご本人の意図が明確に伝わってこないのは不自然である。
時と共に変化していくというのはもちろん、あるだろうけれど。
ネフライトがモデルとなったことは、彼自身が晩年、人生を振り返るようなかたちで明かしている。
ただ、公式に発表された痕跡はない。
諸説あるヴィクトリアストーンのモデルについては、世界的にはキャッツアイ、仲間内ではアクチノライト、そして博士の心中においては、一貫してネフライトであったというのが私の推測である。
それが公にならなかったのは博士自らの意図ではなかろうか。

飯盛博士はどうも、ご家族にさえ心の内を明かさなかったように感じるのだ。
博士の真意が垣間見える一言がある。
ヴィクトリアストーンを造った動機について、彼は「戦争によってうちのめされ、つづいてアプレゲールの世間から打ち捨てられたこの老人の発心であった」と、述べている。
アプレゲールとは、戦前の価値観・権威が完全に崩壊し、かわってゆくさまを指した当時の流行語。
この発言の意味するところ、戦争が終わり用無しになり、抜け殻のようになった博士を奮い立たせたのは、研究者としての意地だった…
若しくは、いずれ何らかの形で自身が批判の対象になることに対する懸念、
そして失ったあらゆる可能性と、限りある存在への罪滅ぼし。
温和でマイペースな彼が時折見せる、激しく強靭な魂を垣間見るたびに、誰にも告げることなく心の内に抱き続けた想いがあったのではないかと、胸が痛む。

これだけでは、ヴィクトリアストーンが封印されるに至った理由を説明できない。
この類い稀なる宝石を、自らの死をもって封印したとするなら、その理由をひとつに絞ることは避けたい。
原爆開発に携わった自身の研究が無に帰したことに対する悲嘆。
人類を狂わせる放射能との決別。
国内での需要がなく、引き継ぐ者もいなかったという現実。
死後に技術が改変され、意図せぬ方向へと向かうのを防ぐため。
そして何より、自分の跡を追ったがために早世した息子への愛と後悔が、一貫してそこにあったと私は推測する。
というのも、彼の跡を追って原爆開発に関わり、志半ばで死去したご長男の話題が、資料のどこにも出てこないのである。
無念の記憶として繰り返し出てきてもよさそうなのに、ご遺族も明言を避けておられる。
意図的に避けたとしか思えないのだ。

一昨年、夢で飯盛博士と歩いた石川県の海岸。
彼の地に石を愛する一人の男がいた。
飯盛博士の業績を評価し、辿ってこられた人物でもある。
今回の記事を記すにあたって、氏がお集めになった貴重な資料を参照させていただいた。
氏の盟友であるあの岩石岩男氏が、このご縁を繋げてくださった。
鉱物を愛する勇敢なハンターであるお二方、そして全世界の偉大なる父上に、恭敬の意を表する。
2012年、80歳になったアメリカの父に贈った京都の桜石(アイオライト仮晶)の写真を最後にご紹介させていただく。

思えばこのブログを始めたのは、自然が創り上げた鉱物が、自然には存在し得ないほどの放射能によって容易に変化することを危惧したのがきっかけだった。
ヘリオドールクンツァイトモリオン、或いは放射性鉱物。
大自然の恵みであるはずの鉱物に、人類の狂気が関与しているという悪寒。
我々は、放射能の恩恵に与り、原子力を頼って生活してきた。
それを問う結果になったのが、2011年3月に起きた、福島での原発事故。
昭和二十二年、疎開先の福島で博士が原子力の可能性と限界を示唆していたことは前々回に引用させていただいた。
博士の危惧は現実となった。
事故後の混乱が落ち着きを見せ、原子力の限界が問われている今、博士の遺志を伝えることは無駄ではないと信じている。
ヴィクトリアストーンは、福島の地から生まれた。

米軍により、放射化学研究が禁じられたのち、飯盛博士は疎開先の福島県で、陶磁器の技術を「暇つぶし」のために学んだとされる。
終戦の年、博士は新たな研究を進めるために、福島県会津、及び相馬の地を訪れた。
その後、陶磁器をつくる過程で、ヴィクトリアストーン誕生のヒントとなる特異な物質を発見されたというエピソードが残っている。
私は意図的に進められたものと推測する。

博士がどのような理由で、どのような経路を経て会津と相馬の二箇所を訪れたのかは、現時点ではわからない。
当時彼が疎開していた福島県石川町からはいずれもかなりの距離があるし、方角的に離れすぎている。
ある方のご意見を聞き、なるほどと思った。
相馬には、海がある。
もし彼が海を見たとするなら、故郷・石川の海を思ってのことかもしれない。
その海は現在、放射能に汚染され、近づくことはできない。
相馬には、相馬焼という伝統工芸が存在したようだが、先だっての原発事故の影響で壊滅状態となっている。
博士がヴィクトリアストーンの開発にあたって技術を拝借したのは、相馬焼に間違いないはずだ。
原発事故後、相馬を南下することは堅く禁じられている。
つまり、ヴィクトリアストーンの始まりの地は、関係者以外が立ち入ることのできる、最後の土地ということになる。
置き去りにされた街に、置き去りにされた人々の姿を、私は忘れることができない。
私の知る限りでは、福島のもたらした電力を当たり前のように利用していた関東の人々にとって、福島の人々の現状は空想であり、全くの他人事であった。
同じ日本人の現実として、ただ受け止める。

※当時の記事に興味のある方は是非。南相馬市の様子です。
http://usakoff.blogspot.com/2012/05/blog-post_11.html

原発事故は先人の過失だと叫ぶ者が現れた。
夢でお会いした博士の険しい表情の意味を、私はここに書きとめておきたいと思った。
飯盛博士が槍玉にあげられるのは時間の問題であった。
あらゆる伏線が敷かれていたのに、我々はその警告に気づくことなく、最悪の結果を目の当たりにすることになった。
博士の死後三十年間、誰もそのことに気づかなかったのだとしたら、私はここで警告する。
事故は、起こるべくして起こったのだと。

ヴィクトリアストーンを完成させた飯盛博士にもできなかったことはある。
この石の真の価値を日本に定着させることである。
皮肉にも今、ようやく陽の目を見たヴィクトリアストーン。
本当にこれでよかったのだろうか。
私は問い続ける。

2013年、初夢に博士は現れなかった。
今、博士の無念は晴らされたものと私は信じている。
永遠の自由を得られたことと、信じている。
長い人類の歴史において、原子力の時代が始まってから、まだ百年経っていない。
しかしながら近い将来、多くの犠牲を伴って終わりを迎えることは明白である。
もうこれ以上犠牲者を出してはならない。
最後の警告として、受け入れようではないか。


思うにこれからの人類繁栄を約束する
あの原子力や放射性同位体、
そしてわれわれ人類の死活を
一瞬にして決せんとする
あの恐ろしい鍵の一つを握る放射化学よ!

筆者はそなたが
わずか半世紀の間に
こんなにもすばらしいものになろうとは
夢にも予期していなかった。

しかし願わくば
今後の放射化学は
絶対に心なき人々の手に委ねてはならない。
気違いに刃物といっても
この場合は
全人類の絶滅を意味するからである。


(『放射学と放射化学 化学と工業』vol.13 (1960) 飯盛里安)




おわり

2013/01/02

ヴィクトリアストーン【第三話】父の愛


アイエル・ストーン
IL-Stone/Synthetic Emerald
Iimori Laboratory, Tokyo, Japan



ヴィクトリアストーンは芸術そのものであると、アメリカの愛好家たちは口を揃えて言った。
私も同じ気持ちだった。
世界的成功を収めながらも、飯盛博士は晩年、質素な生活を送られたという。
国内で全く売れなかったヴィクトリアストーンの研究を生涯続けたのは、博士の強い信念に由るもの。
…などと考えたくもなるのだが、事態はもっと深刻だったようだ。
欧米からのヴィクトリアストーンの注文をたよりに、細々と宝石を売って過ごす日々。
その魂は世界中の宝石を愛する人々に伝わったものと信じたい。

遥かなる蓬莱山の峯晴れて奇しき翠石あらわれにけり」(『蓬莱山通りの図』 飯盛里安)

飯盛博士が晩年に詠んだ句に添えられた絵に、蓬莱山より顔をのぞかせる奇妙なエメラルドグリーンの鉱物が描かれている。
ダイオプテーズに似ている。
偶然だがその年、レアストーンハンターうさこふがこの世に誕生した。

60年代末~70年代にツーソンショーでヴィクトリアストーンを手に入れた海外の宝石職人たち。
今はもうかなりの高齢になる。
彼らは反日であることが多いが、同世代の日本人もまた同じである。
朝鮮戦争に軍人として来日し、敗戦国日本の惨状を目の当たりにしたミック氏(仮名)が、日本人を嫌悪するようになったのも無理はない。

2012年明けてすぐ、私が夢をもとに記したヴィクトリアストーンの謎。
きっかけはオトゥーナイト/燐灰ウラン鉱の記事だった。
太平洋戦争中に原爆開発が行われていた福島県石川町は、東京電力福島第一原発にほど近い土地。
2011年3月に発生した大規模な原発事故に新たなる疑問を投げかけるべく引用したその資料に、どこかで見たお名前があった。
飯盛里安博士。
確か、イモリストーン(=ヴィクトリアストーン)の開発者ではなかったか。
なぜこんなところに飯盛博士の名前が出てくるのだろうかと、不思議に思った。
タブーではあるまいかと、それ以上の追求は控えた。

原爆開発に関わった飯盛博士と、ヴィクトリアストーンを考案した飯盛博士は、同一人物なのだろうか(→違うともいえる。詳しくは昨年の記事の追記にて)。
記事ではあたかもマッド・サイエンティストのように殺気を放つ飯盛博士が描かれる。
かつて見たあの美しい宝石とは到底、結びつかない。
博士の業績は原爆研究だけではなかったはずだ。
しかし当時、ネット上に飯盛博士やヴィクトリアストーンに関する資料は皆無であった。
博士が生涯をかけて取り組んだ人造宝石を代表するヴィクトリアストーンは、どういう訳か現在アメリカにある。
ならば、アメリカ人に直接事情を聞いてみる必要がある。

折りしも震災直後、放射能の脅威は福島から世界に拡大しつつあった。
日本では異常ともいえる放射能への嫌悪、それに伴う過激な論争や混乱が続いていた。
世界は今、ヴィクトリアストーンに何を見ているのだろう。
ある時私は「日本人お断り」という注意書きとともに、ヴィクトリアストーンを販売しているアメリカ人業者を発見した。
この人物、興味深い。

しかしながら、ミック氏(仮名)は予想以上に難しい人物であった。
なぜ日本人と取引をしないのかという私の問いに、彼はすぐには答えようとしなかった。
和歌のやりとりのごとき暗号めいた文通が続いた。
私は賭けに出た。
飯盛博士の異なる側面について、また福島での原発事故との奇妙な関連性について、推測の段階で彼に伝えた。
ヴィクトリアストーンは、作者の罪の意識により封印されたのだ、と。

興味深い、と彼は言った。
どうやら関心を持ってもらうことに成功したようだ。
彼は初めて身の上を明かした。
「私は朝鮮戦争のさい、軍人として日本に滞在したことがある」
距離は少しずつ、縮まり始めていた。

こういう昔のことは、昭和一桁生まれの父親に聞くのがよさそうだ。
私はすぐに実家へ向かった。
そして私は、彼の軍人としての複雑な思いを知ることになる。
戦後間もなく勃発した朝鮮戦争。
米軍の占領下にあった日本は、中継地点として米軍に利用された。

「ギブミーチョコレート!」

空腹のあまり、米兵を必死で追いかける子どもたち。
日本人が地に堕ちた時代。
若き日の彼と父は同じ光景を見たことだろう。
私の父親は偶然にも、仕事の関係でアメリカに留学していたことがある。
私は彼に、自分の父親の人生や思い、日本人としての立場を話した。

奇妙な偶然の一致であった。
ミック氏(仮名)と父親は全くの同い年であった。
70年代初期、ニューヨークの下宿に生活していた父親。
同時期に日本からのヴィクトリアストーンを手にした彼。
後に飯盛博士が親子であったことを報告し、父の愛が創り上げた宝石ではないかとの推測を伝えた時、彼は私が日本人であることを忘れてしまったかのように優しかった。
私は彼に、父の愛とは何かと訊ねた。
彼の存在そのものが答えであった。
いつの間にか、彼は私のアメリカの父親になっていた。
父の愛が国境を超えた瞬間だった。
ヴィクトリアストーンが父の愛とともにアメリカから日本に贈られたことは、飯盛博士に伝わっただろうか。

それから半年。
アメリカからメールが来た。
ミック氏(仮名)であった。
日本から大量に注文が来たのだが、この日本人を知っているか、という内容だったのだが、私は知らなかった。
その日本人が私の知り合いかどうか、確認しているようであった。
いやな予感がした。
すぐに取引をやめるよう伝えたが、間に合わなかった。
URLにあった店舗には、アメリカの父が卸したというヴィクトリアストーンが並んでいた。
私は強い違和感を覚えた。

2012年、日本で突如としてヴィクトリアストーンが話題になった。
国内では評価されず、消えたはずの宝石がなぜ今、注目されているのか。
天然石を最高と位置づける価値観は、今に始まったものではなかった(これは意外であった)。
博士の死後三十年経った今、その価値観が突然覆されたのは不可解である。
さらに奇妙なことに、国内のあちこちに流通し始めたそれは、私の知っているヴィクトリアストーンとは違うものだった。
初めて出合ったヴィクトリアストーンは、夢のように美しかった。
だからこそ、私はいっときも忘れることはなかったのだ。

池袋ショーへ行って、この目で確かめなければならない。
日本人は天然の石、ご利益の期待できる石以外、欲しがらないはずだった。
その背景などを鑑みると、ヴィクトリアストーンは、いま最もご利益が期待できない石のひとつである。
11月末、私は池袋行きを決意した。

偉大なる父の愛は、ときに奇跡を現実にする。
池袋ショーにおいて、私はある人物から飯盛博士の遺したヴィクトリアストーンを直接譲り受けることとなった。
あまりの額に4年前に購入をあきらめた、特別なヴィクトリアストーンも含まれていた。
それだけではない。
飯盛博士が研究を重ねたものの、行方がわからなくなっていた幻の宝石を事実上プレゼントしていただけるなど、想像し得たであろうか。
すべては父の愛のなせる技であった。

写真はILストーン(アイエルストン)と呼ばれる博士の作品のひとつ。
博士が開発した合成宝石を総称して、ILストーンと呼んでいる。
この合成エメラルドもそのひとつ。
ILストーンは膨大な量に及ぶが、合成エメラルドは現存の資料には残っていないから、事実上行方不明になっていたのだろう。
私のような者にこの貴重な宝石を託してくださった彼の人物に、心から感謝申し上げる。
偉大なる世界の父親たちは、父の愛に国境がないことを、時を超えて私に教えてくれた。
しかし、人間の心には時として、真実を遮る闇が生じる。

飯盛博士が生涯背負うことになった苦渋の過去。
福島第一原発事故の波紋で、原爆研究のほうに飯盛博士の名前があがるなど、なんたる皮肉であろう。
博士の功績は忘れられた。
もちろん、欧米は飯盛博士そのものを評価したのではない。
日本もまた同じである。
ヴィクトリアストーンの明暗を分けたのは、人の心であった。
ならば、その違いとは。



10×6×5mm  1.88ct


~まだ続く~
次回、最終回です

2012/12/31

ヴィクトリアストーン【第二話】本当の意味


変彩性ヒスイ/ビクトリアストン
Victoria Stone
Iimori Laboratory, Tokyo, Japan



ベックエレル先生よ、あなたの偉大なる発見は半世紀後にこんなにも恐ろしい事態を惹起するに至った

若き日の飯盛里安は冒頭にこう記し、放射能が人類にもたらした偶然と悲劇について述べている。
終戦後すぐに記されたこの文に、彼の苦悩が凝縮されているかのようである。

仁科芳雄とともに政府要人に招かれた飯盛は、原爆開発研究に取り組むことを余儀なくされた。
二号研究(東大理化学研究所が行った第二次世界大戦における原爆開発)の詳細な内容と、それに翻弄された研究者たち、隠された歴史が彼の手記から明らかになる。
日本が原爆の研究に着手したのは昭和十六年、開戦の年。
アメリカに同じであったという。
圧倒的なウラン資源の違いが日本への原爆投下という結末をもたらし、終戦を迎える。
場合によってはその逆もまた、あったかもしれぬ。

東京大学の研究所がなぜ福島に置かれたか。
これは都内にあったウラン抽出工場が、昭和二十年の空襲で真っ先に攻撃を受け大破したためだ。
米軍は日本が原爆開発を行っていることを知っていたのではないか、と飯盛は推測する。
研究所は疎開というかたちで福島県石川町に移転。
終戦までの約三ヶ月間、奇しくも日本の最先端の研究者たちが福島の地に集まり、放射能を武器へ変えるための研究を行った。
それが本意ではなかったことを、飯盛ははっきりと記している。
彼が戦争に利用され、平和を望んでいたのは、全くの事実であった。
そればかりか、放射能と人類の未来について強い口調で警告している。
2011年3月に起きる福島での原発事故を、あたかも予言するかのように。

長男・武夫氏の急死、またその原因について述べられている箇所は、ここにも見当たらなかった。
意図的に避けたようにも見える。
父より先に福島へ出向いたのは間違いない。
研究所が福島へ移転したときには、理研の在籍者のリストから除外されていた。
四男・健造氏が、父を偲ぶ文中で武夫氏について、早すぎる死に一言触れられているのみ。
ヴィクトリアストーン同様、武夫氏の死もまた、封印されたと私は考える。

これは意外な事実なのだが、飯盛は私生活において、何よりも放射能を避けていたらしい(※注)。
自身の研究のテーマとなった放射性鉱物に関しても、個人的コレクションさえ、自宅に置くことを頑なに避けた。
陽気な笑顔とは裏腹に、神経質な側面もあったようだ。
仲間たちは次々に被ばくが原因とみられる癌に倒れた。
仁科も戦後間もなく白血病で亡くなっている。
にも関わらず、飯盛は97歳でこの世を去る直前までお元気だったということである。
さぞ大往生なさったことと思いたくもなる。
しかし実際は、苦しみと絶望の中にあって、孤独な最期を遂げられたとのことであった。

1982年秋。
飯盛は自宅で倒れ、一ヵ月の入院ののち、死去した。
長年連れ添った妻を見送ってわずか一年後のことだったという。
死因は解剖の結果、癌であった。
彼はおそらく、癌であることに気づいていた。
最後の一週間は酷く苦しみ、その声が途切れた時にはもうこの世の人でなかったそうだ。

奇妙な印象は拭えない。
高齢者の癌はゆるやかに進行し、若い患者よりも症状は穏やかであると聞いている。
97歳でそれほどの症状が出るというのは奇妙で、心理的な葛藤を疑いたくなる。
安らかに死ねない原因があったのだとしたら…
原爆研究、そしてご長男への罪の意識が彼を苦しめたのだとしたら…

我々は絶対に、福島の事故を他人事と思うべきではない。
先人のすべてが、好んで原子力を開発したわけではない。
そして我々は絶対に、ヴィクトリアストーンの封印を解いてはならない。
飯盛の過去は、絶望的な罪の意識とともに、ヴィクトリアストーンに封印されたのだ。
よりによって今、陽の目をみるなど、あまりに残酷ではないか。

飯盛の死からちょうど三十年後の2012年秋。
アメリカから私に連絡が入った。
何かの冗談に違いない。
日本人が大量にヴィクトリアストーンを注文してきたというのである。



───やがて石炭石油のつきる日に

人類の社会から私慾、不信、専横、嫉妬、怨恨
あらゆる不徳が一掃されねばなりません。

(中略)やがて放射能の研究は
一に原子核黎明の実験的鍵として
日に月に華々しい功績を挙げながら、
やがて豊かなる原子力時代を招到することであろう。
我らは田を耕しつつ悠然と空を眺めてその到来の日を待つであろう。

栄えよ放射能!!
さようなら放射能!!!

昭和二十二年 仲秋 福島県石川山にて


(『放射能一夕話 鉱物と地質』Vol.8 (1948) 飯盛里安)


※注1)日本において放射線障害を最初に報告したのは飯盛里安博士であったという。放射能研究の犠牲となった初の日本人で、フランスに派遣されキュリー夫人(Madame Curie)に師事、1927年に31歳の若さで死去した山田延男博士について、彼の死が放射化学研究に因るものと指摘。山田自身は自分の病気と放射能との関係を疑っていたが、原因不明の奇病と扱われるにとどまっていた。1959年に飯盛が、山田の死因ががんであること、実験中に浴びた放射線による被ばくが原因であることを示したのが初の公的な学術報告とされる。早すぎた死が山田の名声を損ねたのは明らかで、存命であればノーベル賞に値する世界的評価を受けたといわれるほど。彼の死から三十年以上言及を避けられたその死因に関して、飯盛がその実体に挑んだことは極めて興味深い。また、それまで放射能が間接的な死をもたらすことは憶測に過ぎず、被ばくと悪性腫瘍の関係についても明言を避けられていたということになる。これが事実であれば、飯盛のこの三つ目の功績も歴史から忘れられたということになろう。また、山田と同じく放射能研究に関わり31歳で急逝した飯盛武夫博士の死因についても、当時は奇病の扱いであったことが推測される。日本最初の原発が建設されたさい、住民に提供された情報の詳細も気になるところである。以上、Wikipedia/山田延男「放射線障害」の項及び資料として放射線の影響がわかる本を参照のこと。

敬称略させていただきました。ビクトリア・ストンは国内での商標登録時のVictoria Stoneの正式名称です。



2012/12/27

ヴィクトリアストーン【第一話】メタヒスイ


メタヒスイ Meta-Jade
Iimori Laboratory, Tokyo, Japan



このような石を造ってみて、ただ自分だけで満足している分にはよいが、
人に見せるとなると、あたまからけなされるのには驚いた。
人工で造った石など値打ちがないというのである。
そっけない話である。

天然の石だから貴いなら、
人間の頭だってそれこそ天然物中の最高のものであるから
その微妙な働きによる人造の石こそ
天然石以上に価値があるのだ、と力んでみたくもなろう。

(中略)宝石の人生における真価は
それを眺める人の心を
陶然無我の境に引き入れる
あの小さな石の偉大な魅力に在る
。」

(『合成猫目石とメタヒスイ 化学と工業』 Vol.13 No.4 (1960) 飯盛里安)


ヴィクトリアストーンを世に遺した化学者、飯盛里安博士。
ある方々のご厚意で、この謎の宝石の謎がさらに明らかになった。
自分の夢を頼りに書いた前回の記事(2011年12月~1月記)に、事実と異なる点がいくらか判明した。
何回かにわけて、ここに続編を記させていただこうと思う。

まず初めに、どうしてヴィクトリアストーンが日本に存在しないのか。
欧米、特にアメリカを中心に流通しているのか、という謎である。
飯盛博士が冒頭で力んで(りきんで)いるように、ヴィクトリアストーンは、実は日本では全く評価されなかった。
天然石を重んじる日本人にとって、ヴィクトリアストーンは "まがいもの" に過ぎなかったということであろう。
博士の死後、多くの原石は廃棄されてしまった。
ご遺族ももう、お持ちではない。
ヤフーオークションで日本を騒がせている珍宝氏(仮名)はご遺族から原石を譲り受けているとのことであったが、残念ながら彼は白昼堂々嘘をついたようだ。
本物へのこだわりは世界一、なのにいわゆるニセモノをつかむ人々が後を絶たない日本のパワーストーン市場。
日本人は、天然という言葉の魔力に弱い。
或いは石の魅せる「陶然無我の境」より、石の名前の持つ言霊に魅せられてしまうこともあるのかもしれない。

1960年代末、海外の宝石専門誌にヴィクトリアストーンが紹介された。
人造宝石・ヴィクトリアストーンはすぐに、世界的評価を受けた。
70年代にはツーソンショーでも大いに話題になり、噂を聞きつけた人々が買い求めたといわれている。
多くの原石がアメリカにあるのは、純粋にその美しさに価値を置かれたから。
つまり、ヴィクトリアストーンが日本にないのは、我々の責任である。
飯盛博士の存命中よりヴィクトリアストーンは世界に知られ、現在も高い人気がある。
いっぽうで日本ではというと、博士が力みたく(りきみたく)もなるほどに惨めな評価を受け、忘れられてしまった。
人造石の前提である、限られた輝き。
これはレシピの流出による量産を防ぐという意味では的を得ていたが、その業績を鑑みるとあまりに残念である。

実際のところ、つい最近まで、ヴィクトリアストーンは日本では全く知られていなかった。
後世に伝える可能性を感じる日本人は無かったのだろう。
国内で唯一その在庫を引き継いだ宝石職人も、どう扱っていいやらと途方に暮れたそうだ。
ヴィクトリアストーンはガラスであるとしている資料も少なくない。
放射化学の父と称される化学者・飯盛博士が人生を捧げた研究が、ガラスとは何たること。
私が4年前一目惚れしたヴィクトリアストーン。
当時は私自身、ガラスだと思うしかないほど知名度がなかった。
つまり「商品」としてではなく、純粋にこの石そのものに一目惚れした人は、日本にどれくらいいるのかということである。

写真はメタヒスイと呼ばれる人造石の原石。
飯盛博士の人造宝石における初期の代表作である。
その名のとおり、最高級の翡翠(ローカン)を模して製造された。
翡翠と同等の成分ではつくることはできなかった。
あくまで模造宝石としての翡翠であるが、この石が原型となって、奇跡の宝石が誕生した。
変彩性ヒスイ、すなわちヴィクトリアストーンである。
ヴィクトリアストーンは、このメタヒスイを特殊な技術を用いて成長させ、複雑な過程を経て得られる。

ヴィクトリアストーンは日本の伝統的色調に基づく色合いを備えている。
色数は15色程度とされているが、実際はさらに色数がある。
それぞれの色に意味があり、博士の愛情が込められているという。
しかし、赤だけが存在しない。
パープルやピンクなど、近しい色はあるのに、赤だけがどうしても完成しなかったらしいのである。
前述のとおり、ヴィクトリアストーンは世界的に評価を得ているが、現在に至るまで、誰もこの技術を真似ることはできていない。
近年流通しているヴィクトリアストーンが中国で模造されたものと私が推測するのは、存在しないはずの赤が含まれるからである。

ヴィクトリアストーンの原石は、アスベスト状の塊である。
このメタヒスイ同様母岩がついており、母岩の際に至るまで、躍動感にあふれるシャトヤンシー(キャッツアイ効果)がみられるのが特徴だ。
中国製のヴィクトリアストーンにはこの躍動感がみられない。
また、ヴィクトリアストーンにアスベストは含まれないが、中国から流通した模造品の一部は天然アスベストであった。

放射性鉱物の研究に携わってきた飯盛博士。
博士は、放射能と原子力の未来、或いは人類が侵される狂気について、察知されていたように思えてならないのである。
というのも、サファイアやルビー、エメラルドなどの高価な宝石は、放射線処理によって容易に改良することができる。
いっぽう、キャッツアイについては、いくら放射能をあててもつくることができない。
最も価値のある宝石と聞いて浮かぶのは、ダイヤモンドとキャッツアイだ。
人造ダイヤモンドについては、世界的に研究が進んでいた。
だから彼はキャッツアイをつくろうとしたのだろう。
そう、思っていた。
そうではなかったのである。

子供向けのアクセサリーや手芸の素材として知られるシンセティック・キャッツアイ(人工キャッツアイ)を考案したのは、実は飯盛博士らしい。
それまでは自然界に存在する手ごろなキャッツアイが加工されていたようである。
人工キャッツアイは現在、百均でも手に入る安物とバカにされておる。
中国に技術が流れたためである。
しかし、自然に存在する宝石を人の手で再現することは、人類にとって永遠のテーマだった。
多くの研究者が人生をかけて取り組んだ結果、実現し得たことを忘れてはならない。


では、日本において人工石が好まれないのはなぜだろう。
その要因のひとつとして、私は日本社会の特殊性を挙げたい。
日本では、万物に神が宿る、と伝えられる。
天然石に神仏が宿り、持つ人を守り導くという考え方は昔からあった。
アニミズム信仰(※注:コラムあり/ややこしいので、興味のない方はとばしてください)を尊重する日本人にとって、神の領域である天然石の世界。
人が踏み込むことは禁忌である。

中国で製造された人工ガラスのビーズ。
ご利益を期待する人は少ないだろう。
ところが、中国の古美術、たとえば古い書簡や壺などに、神性を見出す人は多い。
身も蓋もない話であるが、作者が故人であれば、神が宿ってしまう。

いっぽう、西洋ではキリスト教が主流。
神はイエス・キリストのみ(一神教)である。
万物に神が宿るという感覚がないから、石に神性を求めることはない。
純粋に石のもつ美しさに重点が置かれる。
ヴィクトリアストーンが発表時に高く評価され、今もなお注目されている所以であろう。
石を持てば持つほど神様が増え、ご利益が期待できるといった感覚は、彼らにはない。
キリストや仏陀、菩薩や天使やシヴァ、ネイティヴアメリカンやアボリジニの精霊が石ごとに宿るというのは私自身、謎である。
また、石の意味が気になって仕方がない、という人も滅多にいない。
ニューエイジの人々は例外である。

世界的には天然や合成を問わず、その宝石の完成度や特異性、美しさが評価の対象となる。
欧米で人造宝石の研究が盛んに行われ、専門誌まであるというのは、日本人にはない感覚だと思う。
こうした感覚の違いを理解するのは非常に難解なこと。
専門家でさえ読み違えていることがあるので、私自身不安であるが、独自のコラムを以下に作成した。
参考までにご覧いただくか、ご納得いかない場合は調べていただきたい。

中国で大量生産されるマガイモノが大いにきらわれるのは、欧米も同じ。
それどころか中国は鉱物界を襲った脅威、という声まで聞かれるほど。
その理由が我々とは根本的に異なっていることに注目したい。
思うに、日本人が容易に騙されてしまうのは、石に対する期待があまりに大きすぎて、石そのものを見る余裕を失っているためではないか。
人類がその知能と技術をもって天然の宝石を再現する、という夢は、古くから多くの研究者を虜にしてきた。
日本は人造宝石の分野においては、世界に遅れをとっている(ちなみに京セラが開発した人工オパールは、とっくに中国に真似されている)。

さて、お気づきかと思うが、が飯盛里安博士の功績はヴィクトリアストーンという新しい宝石の開発だけではない。
私の2012年の初夢に登場してくださった飯盛博士。
今回お借りした資料を拝見して驚いたのは、私の夢に登場されたのは、まさに80歳前後の博士そのものであったということである。
あの時博士が一瞬私に見せた、険しい表情は何だったのか。

飯盛博士の死からちょうど三十年目にあたる2012年。
至るところで不穏な動きがある。
陽気でユーモアあふれる性格だったという飯盛博士がみせた、険しい表情が意味するものとは。


注)コラム【アニミズムと日本人】
アニミズムとは、草木や大地、雨や雷など、あらゆる自然の物事を崇拝する原始的な信仰。万物に神が宿るという考え方。日本人の信仰心の基盤となっているとされる。そのため日本では、天然石であればとにかく神さまがいて、ご利益が期待できる!ということになっている…ような気がする。
アニミズムは主に未開拓の地域(要はジャングルの奥地など)を中心に残る概念で、先進国にあっては珍しい。
西洋では一神教であるキリスト教が文化の根底にある。神とはイエス・キリストのことだけを指す。石は神にはなり得ない。例えば、日本人はカリスマやリーダーを指して「神」と呼ぶことがあるが、西洋では人間が神になることはない。カリスマやリーダーは「マスター」であり「ゴッド」にはなり得ない。
日本人にとって宗教というと、特殊な団体という意味合いになってしまい、避けられることが常である。ここではスピリチュアリズム(スピリチュアル)に対する東西の考え方の違いとして捉えてほしい。
欧米でも、ニューエイジの人々は自らを神と名乗ることがある。現地では、一歩間違えると危険思想の持ち主になりかねないのだが、日本人には逆にわかりやすいために、受け入れられているというのが現状。一家にひとつアゼツライトがあり、持てば持つほどご加護も増えていくという感覚は、西洋人には難解であるようだ。

※以上はうさこふ独自の解釈です。あまり考えすぎると混乱します。アニミズムについてニュートラルに説明できる人は少数であり、慎重に調べる必要があるので要注意。


30×30×15mm  23.15g


~つづく~

今週、話題性が確認された10の鉱物

What Mineral Would You Take with You to A Deserted Island?